2003年(前半)
火山高
アクションシーンは確かに眼を惹かれるけれど、そこに至るまでの展開がタル過ぎるのがどうもなぁ。
「ギャラクティカマグナ〜〜〜ム!!!」だけで一回が終わるようなマンガの連載を隔月で読まされているような感じです。
グレースと公爵
フランス革命最中に、オルレアン公の元愛人でバリバリの王党派だったイギリス人女性が居たなんて知っただけでもびっくり。
そんなフランス革命の知られざる一面を知る楽しみもあり。
もう肉体関係はないけれど、親密な情を通わせる男女の機微。
その微妙なやり取りが、他のフランス映画なんかじゃ時に退屈なんだけどロメールだとやっぱり面白いなぁと思ってしまうのはなぜだろう。
背景がすべて絵画なのも、最初は驚いたけどちゃんとしっくり馴染んでいて面白い。
至福の時
チャン・イーモウのアイドル映画第3弾にして、鬼畜ぶりがますます発揮された作品。
20にもなる娘を下着姿で何度もスクリーンを行ったり来たりさせるって…
痛々しすぎて見てられない。(ロリ男は大喜びだろうけどさ)
ストーリーもドン・ジエを可哀想な境遇に追い込むために無理やり作ってるみたいで、強引すぎると思った。
ウエストサイド物語
ソウル・バスのオープニングタイトルにわくわくし、ジャージ・チャキリスの格好良さに
うっとりし、ナタリーウッドの美しさにため息をつき、ダンスのモダンさに驚き、悲恋と
今なお続く憎しみの連鎖の物語に涙する。
やはり、スクリーンで観てこそ真価を発揮する作品。
これを逃したら、今度いつ劇場で見られるかわからない。見るべし!
スコルピオンの恋まじない
脳内で一生懸命、主役の二人を他の人に置き換えようと努力するも撃沈。
スクリューボール・コメディとしては、ややテンポが緩いけど、トム・ハンクスとキャスリン・ターナー(脳内理想キャスト)とかだったら、きっと面白かっただろうに、ミスキャストで台無しである。
トム・ハンクスに断られたって、他に出たがる俳優はいくらでも居ただろうに、なぜ自分?確かに10年ぐらい前ならそれもアリかも知れないけど、このところめっきり老いが目立って来たウディではちとつらい。
それにもまして、ヘレン・ハントのコメディセンスの無さに辟易。
ダン・エイクロイドも上手く活かされてないし。
シャーリーズ・セロンの妖艶さだけが唯一の救いか。
ウェルカム・ヘブン
ぺネロぺ・クルスとビクトリア・アブリルは魅力たっぷりなんだけど、二人が魂を取り合う男に全然魅力がないのがどうもなぁ。
女に暴力を振るう男なんて、最低じゃん!
ぺネロぺはハリウッドで冴えない役演っているより、スペインに帰ってのびのびしてる方がいいって!マジでそう思うんだけどどうよ?
やっぱり、ガエル君は可愛かったけど、カメオ出演のあの人にも笑った。
「ハリーポッターと秘密の部屋」(日本語吹替え版)
姪のお供だったので吹替え版の鑑賞。別になんということもなく…
リチャード・ハリスがスクリーンで最後に発する台詞が「今度の期末試験は 無しじゃ」だ
というのは…(涙)
アカルイミライ
一度、浅野忠信を見かけた事があるけれど、普通のお兄ちゃんにしか見え
なかったんですが…いやはや参った、凄い演技でした。
衣装が貧乏な青年というよりも、他のことは削ってでもがんばってファッションにお金をかけてる、という風にしか見えなかったのはマイナスだったのでは。
あと、ゲバラはやめてよね、ゲバラは。
ボーン・アイデンティティ
ちょっと話に無理があるんじゃ(CIAってあんなにへたれな組織なのか?)と思わない事も
なかったけど、テンポ良し、キャラ良し、爆発控えめで久々に70年代ぽいB級(褒めてる)アクションを堪能。
ジミーちゃんをかっこいいと思う日が来るなんてね。
刑務所の中
中に出てくるご飯が美味しそうで、ビューだったな。
こんなにのんびりしてたら、刑罰の意味がないんじゃ?
ドラマチックじゃない日常の、なんとも言えない間がたまらなく可笑しい。
物を創る人と言うのは優れた観察者でもあるのだな、と当たり前のことを改めて思ったり。
出演者それぞれいい味出してましたが、窪○君だけが浮きまくり。
あれはいらん。
指輪物語 第2部 二つの塔
今回のコピーは「第一部は序章でしかなかった!」っていうんですが…
そんなことわざわざ言わんでも三部で完結する長い一本の映画の序章なんだって、最初から言ってるでしょう!まったくぅ
あくまで、第ニ部であって、続編じゃありませんのでそこのところお間違えなく。
(いや、3部作と言わずもっと続けて欲しいとか言っている人が居たので…そんなことしたらフロドが…)
なので前回のダイジェストなんて親切なものは一切ついていないので、レンタルででも第一部を観ておくのは必須です、それもできればSEE版を(こちらもレンタルあり)
まあ、そう言いたくなるのも解る程スケールアップした感があるわけで、特にヘルム渓谷の戦いの凄まじさは長く記憶されるでしょう。
もちろん発達したCGがそれを可能にしたわけですが、技術というのはどう使うかが重要で、監督やスタッフの中にしっかりしたビジョンがあってこそのあの映像なんだと思います。
ゴラムを見てもそれは言えることで、彼をどういう人物にしたいのかという明確な意志が(もちろんアンディ・サーキスの名演も)なければ、あのように生き生きとしたキャラクターにはならなかったでしょう。(聞いてるか〜ルーカス!)
新しい登場人物はセオデン王、エオウィン、エオメル、ファラミア、ゴラム、蛇の舌グリマあ、エント族も忘れずに。
とりあえず私は、セオデン王萌えということで…(やめれって)
基本的には大満足なんですが、少々不満な点もあります。
ファラミアはあんな人では…
別に原作に忠実にしろというわけじゃなく、変えたならそれに積極的に意味を持たせて欲しいと思うのです。
他にも原作と違う部分は多かったのですが、その他の改変は納得できるものだっただけに、ちょっと残念。
たぶん、SEE版ではそういう場面もあるんだろうと期待してるんですけど。(追記:やはり劇場公開版はファラミアのシーンが相当削られていました。)
何より、劇場の都合のために、何がなんでも公開版は3時間としてしまった会社の方針を小一時間…間に休憩入れればいいんだから最初から4時間版で公開希望。
これでほとんど主要な登場人物が(1人を除いて)出そろい、物語はいよいよ佳境へ…ああ、また長い一年になりそうだ…
今回、いろんな方々の地道な努力が実って、納得できる字幕がついたのですが、何しろ画面のあまりの情報量の多さに字幕を読んでいる暇は(特に1回目は)ないと思われるので、やっぱり吹替え版を観るべきかもしれません。
私も近々吹替え版で3回目を観る予定。まだまだ観るぞ〜
レッド・ドラゴン
レクターが出て来ると「よっ!待ってました!」と大向こうから声が掛かりそうで、なんだか笑いが込み上げて来たのは私だけ?
レイフ・ファインズでは、容姿にコンプレックスがある男ってのに説得力がない気がする。
エドワード・ノートンも普通。(内面の闇が全然感じられず。演出のせいもあるけど)
手堅くまとまっているけど、なんだか普通の映画になっちゃったなぁ。
他の人も言ってましたが、一番恐いのはエミリー・ワトソンでした。
フィル君のダラハイドは激しく見てみたかった。(今度の役も儲け役だけどね)
ボウリング・フォー・コロンバイン
『非常に深刻な事実を目撃した場合、その事実についてひたすら真面目な態度をとってみたところで、そこに巻き込まれている人々の運命がマシな物になったためしはない』
『重要な事件のそばにいれば自分も重要な存在になれる、と考える作家はいないわけではない。そこで彼らは自分がさも重要人物であるかのようにふるまい、いかにもそれ風の口をきく。するとどういうわけだか、読者までもがすっかりそのつもりになる。そしてだれもかれもが「重要」の気分に満たされたが最後、何かに終止符が打たれてしまうのだ。』
──P・J・オローク「楽しい地獄旅行」より
政治的な映画というのは少なくない。
訴えるメッセージは様々で「反戦」や「人種差別撤廃」など、それ自体は何も反対する理由などあるはずもない真面目なものばかりである。
だけども、待てよ、といつも思うのである。
その映画が賞賛されるとしたら、それはメッセージに因ってなんだろうか?
それとも、映画の出来が素晴らしいからなんだろうか?
もちろん両方を兼ね備えた作品も数多くあるわけだが、なぜか圧倒的に幅を聞かせているのは、前者の作品だったりする。
大上段にふりかざした「正論」は、思考を停止させる。当たり前のことを大声で言われた場合「そうよねぇ、やっぱり○○はいけないことなのよねぇ」とはだれもが思い、それで結論が出てしまう。
じゃあ、どうしてそんなことが起こる?どうすればいい?と考える人はあまり多くない。
マイケル・ムーアの出発点はそこにある。
アメリカだけが突出して銃犯罪が多いのはなぜなのか?
疑問に思ったことをリサーチし、具体的に実証をし様々な立場の人の意見を聞き、考える。
それって、ジャーナリストとして極めてまっとうなことじゃないかと思うのである。
「北風と太陽」の童話じゃないけれど、メッセージというやつは声高に言われれば言われる程、けっと思ってしまうもんである。
そこでムーアは「笑い」と言う手段を使って我々に語りかける「なあ、こんなのおかしすぎて、笑っちゃうよな。だけど、いったいどうしてこんな事になったんだい?」
その問いかけはとても有効だ。
カナダのどの家にも鍵がかかってないというのはいくら何でも嘘だろう。とか
(鍵がかかってた場合をわざと排除したっぽい)
アメリカが他国に対して行なってきた非人道的行為を「What a wonderful World」にのせて描くというのは「グッド・モーニング・ベトナム」のまねじゃ?(というかサッチモのこの曲大好きなので、あまりそういうイメージ付いて欲しくないんだよねぇ)
とかも思ったりしたわけだが、とにかくドキュメンタリーとして無類の面白さなのは間違いない。
史上稀に見る「アホで間抜けな」大統領によって戦争が起きてしまった今、この映画がヒットしているのはいいことなんだろう。
ただこの映画を見てなにかを解ったような気になり、反米に傾いたりするのは違うと思う。
何しろ、「国民の多くが反対していることは知っている」けど「全面的に」アメリカ支持を表明してしまった首相を抱える我々には対岸の火事じゃないのだ。
内部からこういうことを言える人が出てくるだけ、アメリカの方がマシかも
知れないし。
※P・J・オロークという人は政治信条においては、マイケル・ムーアの対極にいる人(共和党員)なんだけれど、やってることがひじょうに似通っているのが面白いと思って引用してみました。
自分への戒めのためにも。
Mr.ディーズ
今回はアダム・サンドラー擁護委員会との相互リンクでお送りしております。
ですので、以後彼のことは「アダムたん」と呼ばせていただきます。
だいたい、今の時代にキャプラをやろうとする事自体無謀なのに、もとがゲーリー・クーパーだったのをアダムたんでやろうと言うんですから、そりゃ無茶ってもんですだ。
だから、見に行く前はかなり不安だったんですが…
思った程は悪くない、と言うのが正直なとこ。
初めのほうのバカみたいな行動(ヤッホ〜とか、階段滑り降り)や、主人公がカードに載せる詩を作るのが趣味という設定はすべて「オペラ・ハット」の通り。
まあそれをゲーリー・クーパーがやるから可笑しいんだけど。
世間ではアダムたんがキャプラの名作を破壊したとか言われているようですが、意外とそのへんは忠実なので一応弁護しておこう。
もともとキャプラの登場人物ってかなりエキセントリックなキャラの人が多いので、それがアダムたんがこの映画に目をつけた理由かも。
まあ、この映画は後半のいかにもキャプラらしい部分をばっさりと切ってしまっているわけで、全然別のもんだと思った方がいいです。
アダムたんにそんなこと(真面目なリメイクを)期待している人はいないと思いますが。
その結果、思いのほかスィートなラブストーリーになったと言えないこともないわけではないですが、折り込まれたギャグがすっごくくだらないのでそういうのが好きじゃない人は、ちょっと引いてしまいそう。(いや、私は嫌いじゃないです)
まあ、日本でアダムたんの名前だけでお客が入ると言うことはないので、宣伝の苦労は判るのですが(特にこういう小品は客が入りにくいしね)アニキ路線はすっごく無理があると思います。
字幕で、アダムたんを呼ぶのに「アニキ!」を連発するのもイタタ…
ジョン・タトゥーロの役はこの映画のオリジナルなキャラで、彼がすっかり場をさらってしまうので、アダムたんがちょっと喰われちゃったかも。
ベイブはもっとビッチな女優にやってほしかったなぁ、ウィノナは後半はともかく前半が痛々しくてつらい。
まあ、お世辞にも名作とか秀作とか呼べる映画ではありませんが、工場で作られた人口甘味料だらけの不味いケーキを、いかにも高級そうにみせかけて出されるよりは、駄菓子を駄菓子ですと出される方が、よっぽどましな事は確か。
駄菓子には駄菓子のおいしさもあるしね。
戦場のピアニスト
ポランスキーがワルシャワのゲットーの体験者だというのはよく知られていることで、彼自身「シンドラーのリスト」の監督をオファーされた時には「あまりに生々しすぎる」という理由で断ったりしている。
その彼が、意外にも「自分とは違う状況だったから、客観的になれる気がした」いうことで取り組んだのが同じワルシャワのゲットーにいて生き残ったピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの手記だ。
シュピルマンの一家はポーランドに暮らすごく普通の家族だ。
彼らの日常は理不尽に破壊される。ただユダヤ人だと言うだけで。
道ばたに死体が転がり、気紛れで人が殺され、わずかな食べ物を争う人々。
まるでルーティンワークのように人々が殺されていく様子は、描きかたが冷静であればあるほど、よけいに恐怖が伝わってくる。
思わず息を飲んでしまうシーンも一つや二つではなかった。
すんでのところで収容所行きを免れ、ゲットーからも逃げ出し、なんとか人々の厚意によってかくまわれる日々を送るシュピルマン。
彼にとっては、ゲットーの抵抗も、レジスタンスの蜂起も、窓から見た遠くの出来事でしかない。
いや、そうして傍観者でいることを強いられたと言うべきか。
腕力も体力も何もない(満足にレンガを運ぶことも出来ない!)彼が生き延びるには逃げ続けるしかなかったから。
その恐ろしいほどの孤独!
そんな絶望的な日々が過ぎ、ついにドイツ将校に見つかってしまう。
観ている方は彼が生き残ったことを知っているのだけれど、それでも緊迫する一瞬である。
「何か弾いてくれ」(このシーンは字幕は命令口調だが、実際は「きみ」と呼ぶようなていねいな言い方をしているらしい)と言われて選ぶのがポーランド生まれのショパンの曲だったのは、この場で殺されるという覚悟の上だったのだろうけれど、その響きは、生も死も、敵も味方もすべてを超越してただひたすら美しい。
人間は恐怖だけでなくこんなにも美しいものを生み出すことができると思い出
させてくれるその音色に心が震える思いがした。
戦争が終わって立派な会場で演奏ができるようになったシュピルマン。
だけど、家族を失い、大尉も、助けてくれた友人達も救うことが出来ずに残された彼の生の重さの前には言葉を失うしかない。
ポランスキーが長い年月を経て、自分の体験を見事な作品を持って昇華し得たことに深く感銘を覚えた。
※ 原作にはこのドイツ将校ホーゼンフェルト大尉の日記の抜粋が載っているのだけれど それを読むとこの人があの狂気の時代に驚くほど正気を保つことの出来た希有な人で
あったことがよく解る。
どんな人でも無差別に犠牲にしてしまう戦争の残酷さをなおいっそう強く感じた。
クリスティーナの好きなこと
下ネタフルスロットルで、1人で行った私はげらげら笑っちゃいましたが、 カップルで来た人には気まずい空気が流れたことでしょう(ざまーみろ)
これで男たちがもうちょっと可愛ければねぇ。
それにしても、セルマ・ブレアはいったいどこへ行こうとしているのでしょう?
女優魂とは別の方向(色物?)へ向かっている気がしてなりませぬ。
追記:その後、ジョン・ウォータース組に入ったのを見て納得。
裸足の1500マイル
とんでもなく広いオーストラリアの大地から見るとちっぽけな少女たち だけど、その不屈の精神と存在感が素晴らしい。
特に長女役の子の面構えがいい。
情緒に流れず、スピリチュアルな雰囲気を漂わせる映像も美しかった。
ラストの彼女達のその後にまたびっくり。
しかし白人てのは碌なことしないな…
ジェイ&サイレントボブ/帝国への逆襲
ケヴィン・スミスが自分の半径100mぐらいのことを映画にしたニュージャージー・サーガもこれで終わりということで、今までの映画に出演
したメンバー総出演。
なので、今までの作品を観ていないとちょっとつらいかも(いや、そういう人はそもそも観に行かないとは思うんだけどさ…)
昔の恩を忘れないベン・アフレックは、少なくとも"いい人"なのは間違いないね。
世界におたくの数は多いけど本物のルーク・スカイウォーカーとライトセーバーで戦ったおたくはケヴィン・スミスだけだろうから、もうこの路線で思い残すことはないのかも。
これでこのコンビがもうみられないと思うとちょっと寂しいなぁ。
追記:その後色々あって傷心のケヴィン・スミスは『クラークス2』を撮ると発表。
当然ジェイ&サイレントボブも帰ってくることに。
どうでもいいけど『ジャージー・ガール』を早く公開してくれい。
ヘヴン
運命とか贖罪とか、キリスト教文化圏でない国の人間には理解しにくい部分 もあるのだけれど、だんだん余計なものをそぎ落としていくケイト・ブラン
シェットとジョバンニ・リビシの表情に引き込まれる。
逃亡先で父親と会うシーンが胸に沁みた。美しい映画。
猟奇的な彼女
女の目から見てもチョン・ジヒョンちゃん、むちゃくちゃ可愛いです…
いや、荒んだ心には恥ずかしくなるくらいスイートなラブストーリーでした。
でもね、これってジヒョンちゃん無しには成り立たないような話なんですけど、そこのとこドリームワークスはわかってるんだろうかねぇ?
男の方はニコラス・ケイジの若い頃(世界一女に殴られるのが似合う男) ならいけそうだけど。
抱擁
19世紀の詩人の秘められた恋と、それを調査する現代の恋人達の恋が交互に 描かれるんですが…どうもどちらの恋人達にも感情移入できなくて乗り切れず。
ちょっとビックリしたこと。(ネタバレ)
者って自分の功名のためなら、墓暴きまでするのね…
それにしても都合よく箱 だけ(棺の中にあったのに)出てくるのはどう なのよ。
やっぱりグウィネスちょっと苦手かも………
過去のない男
カンヌ映画祭グランプリ、主演女優賞(ついでにパルムドッグ賞も)と華々しい賞を引っさげてやってきた今回の作品。
「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」以来ず〜っと観つづけてきた者にとっては嬉しい反面、ちょっと戸惑ってしまうような気も。
例えて言うなら、ちょっとオヤジは無愛想だけど、おいしくてお気に入りだった、少々うらぶれた感じの定食屋がある日突然、コジャレたカフェ風のインテリアになってて、雑誌の取材まで来てたりしていったい何ごと〜!?
と、恐る恐る入ってみたら、相変わらず無愛想なオヤジが不機嫌そうな顔をして料理を作っているので少し安心する、みたいな。(なんだそれ)
また、アカデミー賞絡みで例のボイコットの発言がマスコミに都合のいいようにねじ曲げられて流布したりしてなんかなぁ、と思ったり。
報道では「アメリカが恥ずべき経済的理由から、人類に対する罪を犯そうとしている時にオスカーに参加することは出来ない」という部分だけが報道されたわけですが、このあと「アメリカ人やアカデミーに反対しているわけではなく、この悲惨な世界でのただの個人的なモラルの問題だ」と続くわけで、(全文は「過去のない男」の公式サイトで)この後半部分があるとないとでは随分ニュアンスが違うだろうに、乱暴な話です。
閑話休題。
で、まあなんでこんなに時間がかかるのかというと、サボリぐせがついたわけじゃなく(いやそれもあるけど)アキの映画を語るということの難しさにうんうんうなっていたわけで…
アキの映画はとてもシンプルで、それでいて複雑でもあり、とても不親切でもあります。
不親切と言うのは、必要なこと以外は語らないということ。
かつて、ナンシー関さえも感心させた(※)その不親切さを、ずっとカッコいいと思ってきたのです。
だから、必要なことはすべて映画で語られているのに、これ以上何をぐだぐだと付け加える事があるんだろうかと思ってしまう。
ただ一つ、これまでの映画と大きく違う点はアキが「希望」についての映画を撮ったと言うことです。
暴漢に襲われ、すべての記憶を失なう、いや、一度死んだこの男のそれまでの人生はおそらく、アキの今までの映画の主人公達と同じように、当たり前に不幸に見舞われるものだったに違いありません。
しかし、いわば人生をリセットした男は過去を取り戻そうとはせず、住処をみつけ、仕事を捜し、バンドにロケンロール(と書きたくなるね)を教え恋に落ちる、と着々と新しい人生の地盤を固めていき、しかもなんだかとんとん拍子に、上手く行ってしまう。
特にイルマとの恋は、とても中年の男女とは思えないほど初々しくて、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい微笑ましい。
そんななか、男のとんとん拍子の生活と反対に、上手く行かない人生の見本のような(多分今までの映画なら彼が主人公だったのでは)銀行強盗の男が登場する。
彼は「ささやかな個人のモラル」を守るために銀行強盗をする。
男と銀行強盗の間に交わされる約束と、それを果たす男。
彼もまた「ささやかな個人のモラル」を大切にする人間なのです。
そういうものを私はとてつもなくカッコいいと思う。
最後の方で男の身元は判るが、もはや、その過去は何の意味も持たなくなってしまっています。。
自分の事をまるで、他人の話を聞くがごとく聞いている男の頭に中にあるのは前にしか進まない人生への希望なんだろう。
この映画が与えてくれる希望も悲しみも、決して押し付けがましいものではなく、ときにクスリと笑いつつ、胸にせまり、じんわりと暖かく、暗やみで幽かに煌めく玻璃の輝きのように、柔らかく心を満たす。
いささか気が早い気がするけれども、今年のベストだと言い切ってしまおう。
どうも上手く文章に入らなくなってしまったのだけれど、アキの映画の看板女優である
カティ・オウティネンはやはり素晴らしい。
ほとんど表情が変わらないように見えて、最初と最後の方ではまるで違う人物に見えることに注目して欲しい。
ずっと不幸な目にあうことが多かった彼女が幸せな結末を迎えることにも。
※「『真夜中の虹』を見て劇的な日常を反省しよう」/「何様のつもり」所収
24アワー・パーティー・ピープル
最初に断っておくと、わたしはこの映画に登場するマンチェスターのことも、トニー・ウィルソンもジョイ・ディヴィジョンもハッピー・マンデーズもな〜んにも知りませんでした。
だから、そんな人間がこの映画を語るってのはおかしいのかもしれないんだけど、なぜだか好きになってしまったんですよ、ほんと不思議なんですが。
大体、こういうある時代のムーヴメントを振り返るなんていうと、もう思いっきり美化するか、実像を暴くなんていうやりかたしたりするんだけど、この映画はそのどちらでもない。
トニー・ウィルソンと彼の作ったファクトリーと云うレーベル、そこにいた二つのバンドとその周辺だけに限定して、歴史よりもその時代の熱気を伝えることに専念したんだと思う。
彼らの活動って学園祭のノリに近いものがある(あ、石を投げないで…)ような気がするんですよ。
いや、だからレベルがってことじゃなくて、採算とかそういうこと全く考えずにとにかく自分達のやりたいことやるんだ、みたいな若さに任せた情熱みたいなものがという意味でなんですが。
ときどき、トニー・ウィルソンがこっちへ向かって話し掛けてくるんだけどその時の彼って云うのは現在から語っているわけで、そのたびにこちらは「これはもう終わってしまった物語なんだ」ということを意識せざるを得なくって、だから終始、この映画には熱いような醒めたような不思議な空気がが漂っている。
私みたいな、何にも知らない者にはその距離感が心地良かったです。
どんなに楽しかろうと祭りって云うのは必ず終わるわけで、特に現実世界に適応するにはちょっと能力に欠けたトニーが破たんするのは、まあ当然のことである。
しかし「踊る阿呆と見る阿呆」なら踊った方がいいに決まってる(だから石は投げないで〜)んじゃないかと。
ラストの人をくったようなシーンと、全く懲りてないように見えるトニーを見ながら、何となく清々しい気分になったのでした。
かつてマンチェスターと云う町にファクトリーと云うレコードレーベルがありハシエンダと云うクラブがあって、皆がそこで熱狂した、そういうお話。
「事実と伝説があるのなら、伝説を語り伝えよ」(『リバティ・バランスを撃った男』の台詞)そういう映画。
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン
どうでもいいですがタイトル長すぎ。
最近のスピの作品としては上出来でしょう。
でもせっかく、レオとトム・ハンクス揃えたんだから(二人とも、眉間にしわ寄せてギャングやってるより、こっちの方がずっと似合ってる)親子の情よりもコンゲームの楽しさをもっと見たかった。
アナライズ・ユー
あらゆる意味でゆるゆる。よれよれ。
デ・ニーロとビリー・クリスタルの掛け合い漫才だけは楽しいけど。
と、言いながら、最後のあれにはちょっとぐっと来てしまった。
デアデビル
ベンはほとんどのアクションを自分でこなしたと自慢していたけど(眉唾)、少なくとも走るのだけはスタント使うべき!あんなにドタドタ走るヒーローいないって。
まあ、どんなに話がつまんなくともアクションシーンが決まってれば、そこそこ観られるはずなんだけど、カット割のし過ぎで何やってるかさっぱり解らんし。
音で物のかたちがわかるって描写も何度も出て来ると飽きるから、ここって時だけにしとけば良かったのに。
ブルズアイのコリン・ファレルはねぇ、なんかだらだらした展開の中で1人で頑張ってしまったのでちょっと浮いてました。
結局、見どころはしゃべるサイレントボブことケヴィン・スミスだったり。
(なぜこんな映画にこんな長文?)
小さな中国のお針子
文革で山奥の村に送られた青年たち…のわりに女の子の後追い回すとかしかしてないし、
「無知なお針子を啓蒙してやる」とは何たる傲慢な物言いかと、ちょっとむかついちゃったんですけど。
しかもしっかりモノにしてあんなことやら何やらして、挙げ句にあんなことさせて、まったくもー、ろくでもない男たちだよ、としか思えなかったのでお針子がああいう行動をとったのには胸がすく思いでした。(もっともそこに至るまでのお針子の心情とかの描写がないので唐突に映るんですが)
おフランス在住の中国人監督とあって、映像は素晴らしく綺麗でしたが、それだけ。
偶然
結局、キェシロフスキコレクションで観られたのはこの作品だけでした。
電車に乗れたか乗れなかったかで違ってしまう三通りの青年の物語。
そう「ラン・ローラ・ラン」や「スライディング・ドア」の元ネタになった映画。
最初の二話、状況に流されるだけの青年には苦い結末が訪れるわけで、だから最後の話は彼が主体的に運命を選んでハッピーエンドなのかと思いきや…
あのラストの意味は何だったんだろう?
結局は偶然に支配される人生の不思議、どうにもならない運命みたいなそういうものなんだろうか?う〜ん、難しい。
ミレニアム・マンボ
候孝賢、いまだ迷走中。
何だか、ウォン・カーワイの模造品に見えたんですけど、私だけ?
プレイタイム/70mm版
ジャック・タチを破産に追い込んだ映画として知られているこの映画は、永らく幻の映画でした。
日本では初公開以来、ほとんど劇場で見る機会がなく、私もTV放映されたものを見たことがあるだけです。
だから、今回70mm版の上映と聞き何がなんでも行かなくては!と駆け付けたわけです。
結論からいうと、今まで私が「プレイタイム」だと思っていたものは(今でもビデオに保管してありますが)そうではなかったということです。
この映画の主役は‘タチヴィル’と呼ばれた人工の空間そのものです。
タチの映画でお馴染みのユロ氏も登場しますが、彼が主役というわけでもありません。
ストーリーらしいストーリーというものは存在しておらず、セリフも断片的にしか聞こえてこず、ついつい知った顔であるユロ氏を追い掛けてしまう観客を混乱させるようにあらわれる、にせユロ氏。
あきらかに人工的に操作されたサウンドトラック(小さなラベルが風にはためく音まで造ったものだそうです!)
すべてがタチの思うがままに造り上げられた巨大な箱庭のような世界です。
世界は人工でも、そこにはあくまで人間の営みが描かれます。
大きなオフィスで右往左往する人たちや、開店したてのレストランの大混乱のドタバタ劇が繰り広げられて、笑っているうちにだんだんと映画を見ているのではなくて、映画の中の住人になって一緒に楽しんでいるような気分になってしまいます
始めはついついストーリーを追ってしまうのですが、何しろスクリーンのあちこちに仕掛けがあるのですから、そんなことは不可能。
ただただ、タチヴィルの住人になる至福の2時間。
まさに体験する映画であります。
残念ながら、ジャック・タチ・フィルム・フェスティバルにおける上映は35mm版なのですが、上映場所が六本木ヒルズですから、映画を見終わって外へ出ると、もう一つのタチヴィルとでもいうような場所が広がっているというのはなかなか面白い体験なのでは、と思います。
上映が東京と大阪でしかないことを承知で言いますが、これは絶対に映画館で見るべき映画です。
ビデオで見ても、この映画を観たことにはなりませんよ。
いつか完全版(153分あるそうです)が観てみたいなぁ…
歓楽通り
私は、パトリス・ルコントという人は本当は女性を崇めてるんじゃなくて、そういう風に尽くす自分が好き、なんだと思ってるんですが。
だって本当に彼女の事を思ってるなら、どんなに恨まれてでもあんな男からは引き離さなければダメでしょう。
まあ、でも「髪結いの亭主」とかではそういうダメ男のかわいらしさがあったので許せたんですけど、この映画の主人公のパトリック・ティムシットという人は……いえ、本人が悪いわけじゃ無いんですけどね…そんな人様の事言えるような容姿でもないし…でもね…ちょっとね…気持わ(以下自粛)
あと、いまいち女性の方も魅力がないような…
最初に子供時代の主人公が、娼館の女たちに取り巻かれてる画は良かったのに。
シカゴ
オープニングの「All that Jazz」の迫力の太ももとダンスに、おお〜!ゼタ姐カッコエエ〜!と思うも、映画と舞台の違いを意識するあまりの、無駄なカット割りにイライラさせられました。
ダンスをノーカットで見せてくれ〜(「ムーラン・ルージュ」の時にはこんなこと思わなかったのに不思議だわ〜)
みんなが絶賛する、すべてがレニーの妄想として処理されるので唐突に歌になったり、ダンスを踊ったりする違和感がないと云う手法も、私はミュージカルというのはそういうもの
(突然唄ったり踊ったり)だと思っているので、かえって現実シーンとの乖離を感じてしまった。
とはいえ、ゼタはもちろんレニーもギア(本気で20年前に観た、植木等のビリーとかぶったよ)もクイーン・ラティファもジョン・c・ライリーも素晴らしかったし(だからこそちゃんとダンスが観たかったてのもある)そこそこ良く出来た娯楽映画だと思います。
でもこんなに悪人だらけの映画なのに、全体の印象としては猥雑さに欠けるってのはどういうことなんだろう。
「私あんたの事大嫌い」「私もよ、だけどそれが邪魔にならない商売が一つだけあるわ」てなセリフには「よっ!ゼタ屋!」と大向こうの一つも掛けたく
なるんだけど。
ちょっと事前に期待しすぎた?
ドリーム・キャッチャー
「そんなバナナ!」としか言い様がないです…いや、だからキングを映像化するのにアレとかは見せちゃいけないんだって…
ジェイソン・リーの無駄遣い。
D.I.
う〜ん、深刻なテーマを笑いで語ろうとするその試みには感嘆するけど、 一つ一つのエピソードがあまりに現実の問題を容易に想起させて、その図式内に納まってしまうのが残念。
もっと、その枠をはみだして笑いが爆発するような瞬間が見たかったなぁ
ラストの方の唐突なアクションシーンは結構いい線いっていたんですが。
隣の女
昔見た時は、この映画のような関係ってわからなかったんだよなぁ。
哀しくて、恐くて、深〜〜い男女の愛情。
ドパルデューがファニー・アルダンの足下にみっともなくしがみつく、それを見つめるカメラの目線のすごさとか、語り部になる老婦人の意味とか
凄絶なハッピーエンドを今になって、やっと理解出来ました。
終電車
やっぱりドヌーブって大根だわぁと思ったり。
しかしながら、この映画では彼女の大いなるからっぽな美しさが活きているのも事実。
そうブニュエルの「昼顔」での彼女のように。
ベッカムに恋して
まっとうで爽やかなスポコン青春映画なのに、タイトルで損してしまった感じ
あまりの客入りの悪さがざんねん。
下手にベッカムを全面に押し出さない方が良かったのに。
8マイル
いや、もうだからエミネム最高、やられた!で終わらせてもいいかとも思ったんですが…
hiphopにまったく興味のない私でさえCD買いに走ったくらい、この映画のエミネムは魅力的なんだけど、ただ単にルックスの良い、人気ミュージシャンを主役にしたから、というだけじゃないものがあるような気がしてね。
彼女からは妊娠を告げられて逃げ出して、家に帰れば母親は自分の高校の上級生と同棲中
で、セックスの悩みを息子に相談するようなだらしない女だし(キム・ベイシンガーはよくこんな役引き受けたよなぁ)
仕事先の上司からは白人だからか、何かと目をつけられて文句いわれるし、バトルに出れば一言も発することが出来ず恥をかく、もうとことんダウナーなジミー・ラビット青年の姿は漠然と抱いていたエミネムの悪童イメージとはちょっと違う。
カーティス・ハンソンは、自らの才能を武器に、貧困から這い上がっていくというよりは、才能がありながら、それを十分に発揮できないでいる青年の鬱屈や、挫折を中心に描くことにしたらしい。
成功したミュージシャンの物語をファンだけに向けて描くというようなものではなくて、誰にでも通じる普遍的な青春物語の中に、アメリカを覆う貧困、人種、階級の問題まで感じさせる仕上がりになっていると思う。
エミネムの半自伝的映画をつくるのに、MTV出身の若手などではなく、ベテランのカーティス・ハンソンを選んだその人を讃えたい。
おそらくは、たいへん我の強いエミネムをコントロールし、エミネムあるいはスリム・シェイディではない別の面を引出すのに、並みの監督では無理だったろうから。
手持ちカメラによる(撮影はアモーレス・ぺロスのロドリゴ・プリエト)トーンを落とした撮影が、デトロイトの街をリアルにとらえ、街そのものをもう一つの主役として描き出してみせたことも大きい。
デトロイトの貧困層の住む8マイルロード周辺の、かつての繁栄のなごりの廃墟やひと気の無い通り、その閉塞感を吹き飛ばそうとするかのようなクラブの熱気…
hiphopという音楽がどのように生まれ、どんな階層に根ざしたものなのか、それが良く伝わってくる。
クライマックスはラップバトルのシーンで、それまでの鬱憤を一気に爆発させるような、射抜くがごときエミネムの眼光の強さに圧倒させられる。
このバトルの内容をうんぬんする向きもあるようだけど、結局最初に乗り越えなければならないのは、自分自身の中にある壁なのだという事を端的に表しているんじゃないかと思う。(良い子は真似しない方がいいけどさ)
バトルの高揚感の後、ちょっと渋めに締めくくられるラストシーンが表面的なサクセスストーリーとは違う感じで良かった。
改めてラストに流れる「Lose Yourself」がまたいい曲なんだよなぁ、ほんと。
ソラリス
アメリカでは大コケどころか、某評価サイトではすべての年代の観客が最低点をつける(開設以来初だそうな)という、ありがたくない評価を受けてしまった本作ですが、そこまで言われるほどひどくないですって、まじで。(傑作とも言いませんが)
確かに、爆発しないし、アドベンチャーでもサスペンスでも、ましてや、SFですらない
(あれ?)わけで、そういうものを期待して見るとかなりつらいかもしれません。
ソラリスへやってきたクリスの前に現われる死んだはずの妻レイア、本来ならその正体は何なのかが主眼になるのでしょうが、そのへんはあっさりと流し、クリスが妻を愛していたとして、それはありのままのレイアではなく、自分がそうあって欲しいと思う部分だけを愛していたのではないか?
そのために失ってしまった愛を、自分の記憶のままに甦ってきた(つまりそうであって欲しかった相手)妻ではない‘もの’を相手にもう一度やり直すことができるのか?
カットバックで描かれる、幸せだった頃の二人、現在のクリスの苦悩、悔恨、刻まれた記憶と、目の前で起こっていることの間でゆれ動く感情を丹念に掬いあげる演出はちょっと「アウト・オブ・サイト」を思い出させるようでもあります。
「愛の喪失と再生」「人の想い」について深く考えさせてくれる映画だと思います。
また、ジョージ・クルーニーがいい!(いや、ひいき目だけじゃなくて)こんなに繊細な演技が出来たのね〜とちょっと感動すらおぼえてしまいました。
ただ、この映画には大きな欠陥が一つあって、それは舞台が「ソラリス」である必要がまったくないってことなんですけど…(だめじゃん)
おまけ:
映画の中で象徴的に使われる詩が気になったので調べてみました。
これがすべてを言い当てているような…
綺麗な詩ですね。
ttp://www.geocities.co.jp/Hollywood/1123/annex/dylan_thomas.html
( 直リンしていいかどうか判らなかったので、コピペして飛んでくだされ)
ギャングスター・ナンバー1
ギャングスターである以前に、男であるとはどう云うものかが解らなかった男の話。
ポール・ベタニー、デビット・シューリス、マルコム・マクダウェルと渋い男勢ぞろいで、う〜んかっこいい。スーツ姿がとにかくスタイリッシュ。
いつも脇に居て主役を食っちゃうポール・ベタニーだけど、マルコム・マクダウェルの存在感にはちょっと押されぎみか。
少々映像がえぐいのは、いまいち。
ピアニストを撃て!
フィルム・ノワールと言いつつも、結局男女の話になってしまうんだよなぁ彼の映画は。
ああ、まったく雪の中の銃撃戦の何と美しく哀しいことか。
やっぱりトリュフォーではこれが一番好きだ〜
NARC
最後まで、誰が善で誰が悪なのか判然としない緊迫感のあるストーリー展開にグイグイと
引っ張られて見てしまう。
70年代の刑事物みたいなざらついた映像と雰囲気がいい。
レイ・リオッタの存在感が圧倒的。
